真宗大谷派「龍王寺」

福岡県京都郡みやこ町犀川崎山562
TEL 0930-42-0514

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「地域全体が家族になる」 (家の光 2014.8月号掲載)

個人での墓の管理は難しいが、ゆかりのない納骨堂に入るのも寂しい ……。
そんな思いから生まれた、住民たちによる墓の共同管理という考え方。
地域のつながりを取り戻すきっかけにもなっています。

福岡県みやこ町の犀川崎山地区は、北九州市から南へ、
いくつかの山を越えた先に広がる小さな盆地にある。
集落には水田が多く、山沿いの家々を中心に百二十世帯が暮らす静かな山村だ。
この地区でも高齢化が進むが、
そのなかで墓地をめぐる全国でも珍しい試みが始まっている。
地区の真宗大谷派龍王寺の住職・太田信昭さんが中心となり、
集落の出身者であればだれでも入れる「共同墓」を運営し始めたのだ。

寺院から徒歩二分ほどの高台にある墓地は「祖廟」と名づけられ、
木製の屋根をしつらえた石造りの納骨堂が、集落を見渡すように建てられている。
特徴的なのは、この共同墓が地区の有志による運営委員会で管理され、
月に一度の草刈りや供養のほか、
お盆やお彼岸の時期にはバーベキューなどのイベントが催されていることだ。
「どんなに立派な墓でも、都会に出た子どもや孫が管理できなければ、
いずれは無縁仏になる」と太田さんは言う。
「それなら地域全体を家族と捉えればいいのではないか。
そう考えたところからすべては始まったんです」

 

祖廟の建設は今から七年ほど前、地域のある農家の主人が亡くなり、
耕作放棄地を譲り受けたことがきっかけだった。
当時、用地はやぶや樹木に覆われていたが、
「無縁仏をなくしたい」と声を挙げた太田さんが賛同者を募り、整備に乗り出した。
農地の墓地への転換、納骨堂建設の許可取得などの課題を一つ一つ乗り越え着工。
それまでに、四年の歳月をかけた。
実際に祖廟建設に参加し、墓を改葬した福間和美さんは言う。
「子どもの代はまだいいとして、
都会で生まれ育った孫に墓のことを頼むのは現実的ではありませんからね。
ここなら供養も地域で続けられていくし、とても安心です」

犀川崎山地区ではかつて山腹に棚田が広がり、
個々の家の墓の多くがその脇に建てられていた。
そのため人口減少で棚田が消えると、
墓はうっそうとした山中に残され、放置されて無縁墓となる例が出てきた。
都会に暮らす子ども世代からしてみても、
墓参りのたびに長靴を用意して
山道を歩かなければならないことが負担になっていった。
「だから、祖廟のアイデアを聞いたときは、わたしもすぐに賛成しました」と、
参加者の一人の高田浩さんは言う。
「墓を移してみると、『山道はよう歩かん』と言っていた息子も帰ってきたとき、
『ここならいいなあ』と孫といっしょにお参りをしていましたね」

現在、お堂内の百二十基の納骨スペースのうち、地区内の参加者は五十戸ほど。
残りは、県外などに暮らす地区の出身者が先祖のお骨を納めている。
「祖廟が建設されたことで、地域の輪が広がった」と
運営委員の村上春美さんは感じている。
「これまではお彼岸とお盆だけだったお参りも今は月に一度。
みんなで掃除をしたり、お茶を飲んだりする機会が増え、
自分たちとご先祖様がいっしょになって
この土地で暮らしているという感覚を抱けるようになりました」

また、同じく運営委員の田中裕さんも
「お彼岸やお盆にここへ来れば、村を出ていった懐かしい人に会えるのがうれしい」。
お盆やお彼岸のさいに村の出身者が一堂に会し、イベントも催されるため、
祖廟が貴重な交流の場にもなったからだ。

 

住職の太田さんによれば、「墓というのは子どもが親を祭るもので、
祖廟の試みは邪道だ」とする意見も確かにあったという。
しかし少子高齢化の時代の流れのなか、
地域で墓をいかに守るかという課題があることは、だれもが認めるところだ。

 

運営委員会では祖廟のまわりに桜の木を植え、
戦没者の法名塔を建立した。
いずれは「ここ五十年ないし百年のあいだの
村の人たち全員の法名塔を建てること」が、太田さんの目標だ。
「墓とはたんにお骨を安置するだけの場所ではなく、
ご先祖様の苦労のすえに自分たちが生きていることを確認する場所。
祖廟はご先祖様とつながり、
同時に生きている人たち同士が深くつながり合っていく場となる。
その意味で集落全体が家族となるというこの形は、
今の時代に求められる新しい墓地の形の一つだと考えています」

【重さ2トンの御影石を積み上げ、ステンレスのボルトで固定。
本体工事には鉄筋を使わなかった。】

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【基礎工事の前に110センチの杭工事を施工】

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「地元戦死者の法名塔建立」 (毎日新聞 2012.11.16掲載)

みやこ町犀川崎山の龍王寺住職、太田信昭さん(60)が
地元の戦死者27人の戦没地を1年がかりで突き止め、
供養の法名塔を建てた。
資料を管理する厚生労働省と福岡県は原則的に遺族にしか情報提供しないが、
「慰霊のため」と理解を得て開示にこぎつけた。

「万歳三唱で送り出した人たちを弔うため、
一人一人の名前と戦没地を記した法名塔を建てたい」。
太田さんの発案に区長らが承諾し、塔を建てることになった。
太田さんには20代で戦死した叔父が2人いる。
うち1人の戦没地は戸籍に「中支」とあるだけで、中国のどこかわからない。
高校教師を退職する1年前から、遺族会や護国神社に問い合わせを始めた。

陸軍は県が、海軍は厚労省が資料を管理していると知ったが壁が立ちふさがった。
資料を請求できる親族の多くが亡くなり、手続きが取れない。
太田さんは交渉を重ね、個人情報を悪用しないことを誓約して27人の戦没地の開示を受けた。
三菱重工に勤め召集されて出征した叔父の一人は
終戦後の45年11月、中国山西省で頭を撃たれ戦死したとわかった。
残留した所属部隊が蒋介石率いる国民党軍に編入され、共産党軍と戦ってたためだ。

判明した戦没地が遺族の把握する場所と異なる人もいた。
ビルマ(現ミャンマー)と思っていたらボルネオだったり、死亡の日付が違うこともあった。
当時は軍の報告で戸籍に戦没地が記載されており
「国に命を捧げた人たちへの対応として、十分なものと思えない」と太田さんはいう。
御影石で作った法名塔には、名前と亡くなった日、年齢、戦没地を記した。
ニューギニア、ビルマ、インド、中国……。
山深い小さな集落から多くの若者が散っていったことがわかる。
「やっと、お帰りなさいという気持ちになれました」。

過去ををたぐる中で太田さんは「なぜ今さら調べるのか」という懐疑的な視線も感じたという。
「彼らは何のため戦死したのか。
二度と間違いを起こさないため、今を生きる私達は過去に向き合わなくてはいけないと思う」。

【沖縄平和祈念公園にある平和の礎と
同じ大きさの石碑に名前を刻んだ。】

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「ぼん鐘じいさん」 (朝日新聞 1959.03.13掲載)

福岡県京都郡犀川町崎山地区の龍王寺の鐘がきょうもゴーンと鳴っている。
この鐘は去年の十月出来上がり、
地元の人たちの間では“カツジ鐘”とも呼ばれている。
同地区の通称ジル谷に住む田中勝治さん(80)の名前から出たもの。

戦争中供出したお寺の鐘を
「さびしいから早く再建しよう」と二百五十戸の村人たちから話が出たとき、
それから十ヵ月というもの、田中さんは炭焼小屋にこもりきり、
その間の炭焼代五万円をポンと寄付した。

田中さん老夫婦は戦争中の十九年、
田川郡で事業に失敗、無一物で郷里の崎山に帰って来た。
ジル谷の田畑は荒れ果てていたが、
間もなく後を追って来た一人息子の一丸さん(51)夫婦と一緒に開墾を始め、
今では八十アールほどの“美田”に仕上げた。

そのかたわら農閑期の十一月~五月には炭焼きをやった。
ひと月五十俵くらいは焼く腕前となったが、
この間に五人の孫たちも成長、孫娘三人もふもとにとついで行った。
故郷の山の生活にはすっかり田中さんの気に入った。

 

朝七時に起きて夕方まで炭焼仕事に山の中に入り、
ノンビリした春の一日を過ごす。
炭焼賃は一ヵ月四、五千円位だが、生活には苦労をしない。
ほとんどが自給自足だからだ。
八十歳になってもメガネはかけず至極元気。
山の中で静かな鐘の音を聞くのが何よりの楽しみだそうだ。

【梵鐘には寄進者の名前が刻まれ、勝治じいさん達の願いは、
「正覚大音 響流十方(正覚の大音、響き十方に流る)」
という仏様の声として今も響いている。】

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